阿佐ヶ谷ロフトで開催された未来(あした)のアニメに大橋学が出演。中学劇画狂時代から東映時代のエピソードなど、貴重な資料を交えながらたっぷりと語ります!PART1~2まで。
小林 森本さんが動画の頃は大橋さんの原画が面白いから好んでやってたって話ですよね。
森本 まず一番最初に出合った原画マンが大橋さんで、自分が大橋さんの原画を担当した時に、絵が好きだし動きが凄い面白いなぁ~と思って、自分から制作の人に「大橋さんの原画が上がってきたら必ず私のとこへ、ちょっと。」て言ってね。大橋さんのはやります、ってね。その位好きだったし。
小林 原画に魅力があったんですね。
森本 その後大橋さんと一緒に飲んだりとか語ったりするようになって、ああ、あの作品もやったんだ、これもやってたんだって驚いたんですよ。ああ!知ってますぅ!とか言って。
そして今日はオサムちゃんが世の中の1,2ってくらい好きだって言う・・・・
小林 宝島のエンディングね。オープニングももちろん大好きですけど。
森本 その宝島のオープニングとエンディングをやられてますよね。
(ゆっくりと大橋学登場)
森本 では今回のゲストの大橋学さんです!!(会場拍手)
小林 今日は来て頂いて光栄です。今日は大橋さんにいろいろ聞いてみたいと思います。まず絵を志す動機って言うか、その辺をお聞きしたいなぁって。
絵は小さい頃から上手だったんですか?
大橋 えっと今日はね、自分が中学時代描いた物を集めた段ボール一箱『タイムカプセル』をのぞいてみたんですけど、中学時代夢中になっていた物を見たら恥ずかしくなっちゃったんですよね。自分が昔凄くヘタだったなぁっていうのが良く分かったんですよ。
そのヘタさ加減を認めなきゃいけなかったなぁって思って。
中学時代どんな子供だったかというと、あんまり目立たないんだけど漫画が大好きな子供でした。
当時は「少年」、「少年画報」、「ぼくら」、「少年ブック」とか色々ありました。メジャーなのは「少年」で鉄腕アトムや鉄人28号なんか連載してましたね。自分が購読していたのは「少年画報」で、赤銅鈴の助とかビリーパックとかが大好きな子供でした。
貸本って言うのは戦後からずっとあって、子供ゴコロにこのよなよな光ってる本屋さんは何だろう?と思ってたんだけど中学になるまで入れなかったんですよね。大人な雰囲気で。
中学に入って初めて貸本屋に入れるようになったんだけど面白い劇画雑誌の短編集がたくさんあってね。
有名なのはさいとう・たかをさんの日の丸文庫出版の「影」(大阪)、東京の方では「街」っていう劇画雑誌がありまして、そこに急にはまって片っ端から真似をするようになったんですよ。それが、凄く熱中した中学時代の劇画の世界なんです。
その頃主に似顔絵を投稿していたんですよね。最近分かった事ですけど、出﨑さんと杉野さんはすでに短編作品を投稿していました。荒木伸吾さん、真崎守さんの名前を短編漫画で知っていました。荒木さんの名前は中学時代から知っていて、名前がカッコいいんで、もうパッと覚えちゃいました。もりまさきさんはオールひらがなで活躍していましたね。絵はあんまり覚えてないんだけど、名前は覚えてました。
中学三年の時は劇画クラブを作っていて、会員35名ぐらいの同級生2~3人引っ張り込んでガリ版刷りの10~20Pくらいのを、うちの庭の物置でコリコリとやっていました。流行ってたんですよね、当時劇画クラブが。
で、おかいしいのがね、全然意味は分かってないんですけど「スペクタクル劇画同人」という名前を付けていました。
(ここで中学時代の激流No.3登場。)
小林 上手いよね!中学生の絵じゃないよね!
大橋 さいとう・たかをさんは日活のアクションの流れをくんでいて、自分は赤木圭一郎のまさにファンだったので「激流」なんです。
これは3号になっているんですけど、だいたいどの作品もNo.3で終わるんです。
小林 このナンバー・3が可愛いですね。これガリ版ですよね。
大橋 それでね、自分は劇画家を目指していたんで、中学卒業前にさいとうプロか、ありかわ栄一さん(貸本時代の旧筆名、その後園田光慶と改名)の所によく訪ねていって顔を売るようにしていました。
園田光慶さんは貸本時代、ありかわ栄一さんの名前で描いていたんだけど、貸本が潰れてしまうんで雑誌の世界へ移らなくてはいけないということで、川崎のぼるさんの代筆を主にやっていました。何作かやってやっと園田光慶って名前になったんですよ。
その頃の劇画時代の人はみんな雑誌に転向しましたね。
自分は劇画家を目指していたのでありかわさんのアシスタントか、集団でたくさんの人がいたさいとうプロに行こうと思ってました。そこに顔を売るようにして絵を送ったりなんかしてね。
小林 さいとうさんとは交流あったんですか?
大橋 えぇ。ありました。その頃はよく似顔絵を投稿してましたね。ここにね、住所書いてあるの(笑)
(投稿作のイラスト登場。「ぜんたいにうすっぺらい感じだながんばってネ75点」)
森本 いや、昔ってね住所書いたんだよ(笑)
大橋 サインばっかり凝っているの。絵は全然ダメなんですけど(笑)
(さいとう・たかをさんの手紙と肉筆の原画登場)
大橋 これ表紙の一部なんですよ。
カラーの原画をもらったんですよ。この頃はみんな原画をチョンチョン切ってたんですよね。その後原画を切るのはやめてくれ、って言ったのは白土三平さんなんです。やっぱり将来原画は役に立つから、ってことでね。
小林 それ正しいですよね(笑)でも投稿する者からしたら原画もらえるって嬉しいことですよね。
大橋 それで中学時代は猿飛佐助、安寿と厨子王丸、西遊記などの長編は凄く熱中して観ていました。
小林 一番お好きだったのは何ですか?
大橋 一番熱中したのは西遊記、猿飛佐助かな。
森本 その頃からアニメーションに興味あったんですか?
大橋 中3の秋頃、東映のテストの小さい募集広告を見ましてね。どちらかというと8:2位の割合で劇画に進みたいと思ってて、ほんとうに直前までさいとうさんの所へ行こうとしてたんですよね。
ところが10月頃テスト受けてみたら東映に受かっちゃったんですよね。それで貸本からちょっと離れたんですよ。半年くらい。中3の年内には面接も受かって内定してましたから。その2~3ヶ月後に虫プロの募集広告のこんな小さい記事を見つけてね、あ~、虫プロっていう手もあったか~と思ったんですけどもう東映に受かっちゃってたから(笑)
で、その頃出﨑さんと杉野さんは既に(劇画に)投稿してたの。最近知ったんだけど、あ、昨日知ったんだけど
小林 すげぇ最近(笑)
大橋 杉野さんはいつ頃入ったのかなぁ~?って調べたら39年なの。自分も昭和39年なの。
小林 オレが生まれた年ですね。オリンピックの頃ですね?
大橋 うん、そう。で杉野さんは劇画で食べていこうと思ったらしいんだけど、貸本がなくなっちゃったもんでね。劇画では出﨑さんの方が先輩だったらしいんですよね。虫プロに入った時に出﨑さんが「杉野さんのは載ってないだろう?」なんて感じのことを言われたらしいんだけど、ほんとは2本載ってるんですって。
小林 あ~ちょっと上から目線ですね(笑)それは大橋さんはご覧になってるんですか?
大橋 後でコピーで見たんですけど、けっこう表してるね。杉野さんは繊細な感じで大胆な感じが出﨑さん。やっぱり小さい時のルーツを表してる。
小林 森本さん出﨑さんの「伍空」のマンガ見てるんですよね?どうなの?
森本 いやぁ、もうめちゃくちゃ凄かったですよ。
小林 大胆なの?やっぱり。
森本 凄くシャープでバタくさくなくて手塚さんの流れじゃない、手塚さんはもちろん入ってますけどちょっと違うんだよね。もっとシャープな物が入ってる気がする。どちらかというとグラフィック寄り、デザインチックな感じ。もともと出﨑さんもさいとう・たかをさんとかの流れですよね。
大橋 まさにそうですよね。
森本 出﨑さんの一番最初の16才の頃の漫画が展示されてたんだけど、それもまさに大橋さんが通ってきた道のように、やっぱりさいとうさんの絵柄というか劇画のほうですよね。
大橋 どうも劇画家を目指していた人たちが虫プロに多い、らしい。
小林 絵の上手い人が虫プロで根っからのアニメ好きが東映なのかなぁ~?って。
大橋 東映は美術学校を出た絵描きになりたい人が多いと思うんだけど、だいたい社員の人は美術学校出てるんですよ。後から入った契約者は、俺も契約者なんだけど・・・
小林 一時期虫プロでアニメーションされててもその後は漫画に戻る方とか。村野守美さんとかにしても・・・アニメもやるけどマンガも、みたいな。
大橋 そうですね。
森本 あの当時ってアニメが始まったばかりだからいろんな業界からアニメに参戦してると思うんですよ。
小林 もともと手塚さんが漫画家だから、漫画の人は虫プロは行きやすかったかもしれないですよね。
大橋 杉野さんはもりまさきさんから呼ばれたんですけど、既に荒木さんは先輩として居たみたいなんですよね。
小林 荒木さんは貸し本時代劇画やられてたんですよね、先ほどおっしゃってましたが。骨太な絵なんですよね。なんだろうな、もりさんも美術学校出られてますけど確か芸大の建築だと思うんですけど。
森本 テロップが出るといいんだけどね。
小林 会場の方でもりやすじさんって知ってる方・・あぁ、25%くらいの人が手を上げてますね。
大橋 で、ちょっと遡っていい?なんでアニメーションを志したか、って言うとね。ホントに間がないんですけど劇画から急にアニメーションになって、中学3年の卒業と同時にもう東映に通うようになって、三ヶ月の所二ヶ月勉強してね。で、いきなり3本TVシリーズがあって、風のフジ丸・狼少年ケン・宇宙パトロールポッパ。
小林 名作ですね。
大橋 で、その中からどれに入りたいか自分で決めろ、って言われて風のフジ丸を選んだんです。
小林 それはなぜフジ丸だったんですか?
大橋 やっぱり貸本の白土三平の系列でしょ。
小林:森本 ああ~!そうか、ちょっと劇画チックっていうか・・・
大橋 そう。ケンなんか描けそうもなかったし。
小林 マンガとアニメーションってちょっと違ってて、マンガはやっぱり2Dっていうか平面で表現する世界かなぁと思うんですね。アニメーションってやっぱり空間と動きが入ってくるんでちょっと3Dに近くなると思うんですよ。大橋さんに聞きたいんですけど、劇画の世界にいたのにいきなりアニメーションを描けたものなんですか?っていうのは知りたいなぁと思うんですけど。
大橋 アニメーションはね、教科書の隅にパラパラ漫画を書いてたんでね、白紙があればやっていたって感じだね。知恵はあったね。
小林 それは東映の長編とかを観て触発されてとか
大橋 いや、もっと小さい時からやってたね。
小林 そっかぁ・・・できちゃってたんだ(笑)
大橋 動く、っていう原理は分かっていた。
小林 実際描かれた作品をご覧になっていかがでしたか?
大橋 もうね、毎日がね、楽しくってしょうがない、って言いながら仕事してた位でね。およそ1年は毎日無難に楽しくやってたんですよね。
小林 あの頃って、描かれてからテレビで観るのにそんなにタイムロスなかったですよね。
大橋 そう、だいたい完成品を試写室で見てたんだよね。だから半年くらい前は鉄腕アトムをテレビで見ていたのに、今度は試写室で見るようになっちゃったから。自然とテレビは見なくなっちゃいましたね。貸本も見なくなったし。だから描いたモノを即試写室で見れるっていうのは嬉しかったですよね。だいたい一週間に一本は試写室で観てた。楽しくてしょうがない時代でした。それは長くは続かないんですけど(笑)
小林 飽きちゃったんですか?
大橋 およそ一年から一年半くらいは無難にこなしてましたね。
それと当時は稼げたんですよねー。凄い(笑)今からすると夢のような話で申し訳ないんだけど・・・当時たばこが50円位だとすると動画の値段も50円、カレーライスも東映の食堂なら40円で食べられるって感じだから。一枚描けばだいたいなんかできると(笑)珈琲も飲めると。
小林 一枚50円だったんですか?
大橋 そう。
森本 (今に例えると)350円?400円500円位ですか?劇場とか作品によって単価は違うんですけど。
大橋 だから10倍とは言わないけど5倍くらいにはなってて欲しいんだけど、5倍で250円・・・安いよなぁ。
それで最初ノルマの8枚から始めたんですけど、3ヶ月ぐらい過ぎたら一日ノルマが12枚になり18枚になり、それを超えるとお金がもらえるんですよね。で最高一日100枚以上やったことあるし、100枚目指してましたから。
森本 一日100枚って凄いことですよ?自分でも最高月で1,000枚くらいですもん。
小林 いっぱい動画を描けないと原画にあがれないっていう・・・
森本 そう、原画になるノルマが1,000枚だったんで、あしたのジョー2の時に1,000枚描きました。
それでもその時1日30枚からその位だったから・・・
大橋 今じゃ10枚20枚がやっとだよね。
森本 今は線が多いですからね。もう影も多いし・・・
大橋 あ、昔影なかったですよ。影ゼロ。
森本 影ゼロ!いいですねぇ~それ(笑)
大橋 15才でね、15万。×3倍位にしてみて下さい。うち貧乏なんで急にお金持ちになっちゃって(笑)給料前にお金がなくなることはなかった。
森本 今より豊かじゃないですか。それ逆にね。
大橋 だから昔みんな豊かで、だんだん車を買うようになっていったんですよね。
森本 今のアニメーターは車買えないっすよ?
大橋 大塚さん宮崎さん、木村さんって順番に車を買うようになっってったの。
小林 大橋さんは大塚康夫さんの下でやられたことってあるんですか?
大橋 あ、全然ないです。
小林 テレビ班の方だったんですかね
大橋 オレの上には木村圭市郎さんでね。木村さんとは東映時代長いんです。10才上なんですよね。
(大阪日の丸文庫の「影」に投稿したイラスト登場。)
小林 あ!あった。学がひらがなだ(笑)あ~、でもさいとうたかおさんっぽいなぁ~。
大橋 これ東西対抗似顔絵合戦でね。最高商品が本だったんですよ。10週、10回載ったら本をくれたの。それが最後だったけど一番いい賞だったかな。あとはアニメになっちゃったんで。
結局劇画でやっていくにはストーリーが作れないとダメだったんで、その辺の勉強は全く出来ていなかったんでやっぱり劇画家にはなれなかったんだなぁ、と思うね。
小林 なるほど。そこでアニメの方に。
大橋 これね。未完の劇画ね。
小林 俺よく扉の絵だけで終わったりしましたけど(笑)
大橋 そうそうそう。
(ここで中学時代の未完の劇画登場)
会場 おお~!
小林 わ~!これ、めっちゃペン入れ途中じゃないですか(笑)めっちゃ上手いけど!
大橋 ああ、これ飛んじゃって(はみ出したインクを指差し)やめたのかもしれない。
小林 あぁ~そこでテンションが下がっちゃったのかもしれないですね(笑)でも絵を見るとやはりさいとう・たかをさんがお好きだったのかなぁ、って感じですよね。
森本 1963年ですね。
小林 オレ生まれてないや(笑)
大橋 で、東映に入った時に勉強をして、東映初期の原画の熊川正雄さんが先生で、普通の丸っこいキャラで横向いたりおじぎしたりするのを(3ヶ月のところ)2ヶ月ほど勉強したんですけど、「君は線はキレイだけどデッサンが狂ってるね。」って言われて。それは致命的に、けっこう今も尾をひいています(笑)
森本 それは登竜門としてあるんですよね。線をキレイに引くっていうのはね。原画とは又ちょっと違うんだけどね、俺も線を引くのが苦手だったんであきらめかけたんですよ。
小林 昔楕円をキレイに繋げ、って言われて楕円何個ひいたか分からない位描いて。ちょっと俺アニメに向いてないかも?って(笑)楕円で挫折しました(笑)
大橋 小林さんもマンガ描いてたの?
小林 ええ、そうです。僕ちょっとマンガ描いてたんですよ。オレ昔4℃で、ポポロのゲームの原画描かれてた頃に大橋さんに初めてお会いしたんですけど、僕宝島大好きなんですよ!とか言って。でその時大橋さんが「ん~君何やってんの?」でマンガ描いてんですけど~と言ったら「ん~マンガ続けた方がいいネ。アニメは年とると描けなくなっちゃうんだヨ」って言われて悲しかった思い出があるんです(笑)覚えてらっしゃいますか?
大橋 え、それオレが言ったの?
小林 マンガの方がいいよ~って言われてね。大好きなアニメーターの大橋さんにそう言われてちょっと切ないボヨ~ンとしたことがあるんですよ(笑)
大橋 すいません(笑)
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